カテゴリー: 文学

  • 保守思想を教育に取り入れるべきか

    保守と革新(リベラル)と言うと今でも政治の二大対立軸と言えるだろう。
    もしかしたら「保守思想を広く教育に」と聞くと眉をひそめる人もいるかもしれない。
    保守と言えば古い価値観を守るということで、「現代的な」自由や平等が蔑ろにされるのではないかと思う人もいるだろう。男尊女卑であったり、排外主義であったり、あるいは戦争美化やリアリティーのない復古趣味を押し付けられるようなイメージを持っている人もいるかもしれない。学が學だったり、国が國だったりと遣う漢字を違ったり、太平洋戦争を大東亜戦争と言ってみたり遣う言葉も違う。保守の言説はなんだか遠いかんじというか違和感を抱く人もいるだろうし、言ってしまえば怖いかんじもするかもしれない。

    今回話したいのは、リベラリズムよりも保守主義を支持しろとかそういうことではなく、社会のことを考えたり判断するにあたって保守の考え方をさまざまある基準の一つにみんなが組み込んでもいいのではないかということだ。自由や平等も一つの価値基準だろうし、経済合理性や技術の進歩による利便性だってそうだろう。それらに加えて保守的なものの見方というものも新たに身に付けて、価値基準を1つ増やしておくのも有効なのではないかということだ。

    そもそも保守思想の根本にある発想・態度はなんなのか。
    古い伝統とやらをとにかく頑固に守るのを目的にすることだろうか。
    どうもそうではないらしい。発想の根本にあるのは人間の理性を過大評価せず、これまで現実にやってきたこと、営んできた生活にはそれなりの理由や意味があることを尊重し、そこに対して謙虚であることのようだ。例えば平等とか自由の理念は人間の理性が発明した素晴らしいものかもしれないが、それを形式的、表面的にあてはめて一足飛びに「よい社会」を作ったり、あるいはこれまでの現実生活を軽んじたり破壊することに慎重である姿勢である。
    人間社会はさまざまな人間、さまざまな事柄が複雑に関連しあって成り立っている。人間の頭では完璧には把握しきれない。そういったこれまでの繋がりを捨象して、頭で考えた特定の理念のみで社会を設計しようとするのが危険であり、社会を改良していくにしてもこれまでのやり方に対する謙虚さをもって取り組むことが大切だということだ。

    そして何が正しいかを考えるときにも健全な常識や感覚でもって判断していくことが大切となる。自由や平等の理念に形式的には当てはまっても「何となくおかしいな」と感じることがあるのは健全な常識に反しているからだろう。今生きる人間の健全な常識もまた先人たちからの生活感覚の継続で形作られていることだろう。これもまた続いてきたものに敬意を払う態度だ。

    いくつか例を挙げて考えてみよう。例えば選択的夫婦別姓は家族の形、在り方に影響を与えるだろう。税金などのお金の話などは便宜によって変えていってもいいかもしれないが、家族観のような普段は考えたり意識することは少ないながらも我々の基本的な帰属意識を与えてくれる重要なものを安易に変えていいのかという態度だ。
    これに対して賛成派からは「選択的なんだから、同姓を選びたい人などの他の人に迷惑をかけていないからいいじゃないか」と言われたりする。
    他にも戸籍制度との兼ね合いなど様々な論点、論拠が賛成派からも反対派からも持ち出されるのだが、「夫婦別姓以外の他のやり方もあるのだから、これまでの夫婦同姓を守っていきましょう」だけだと「でも他の人に迷惑かけてないからいいじゃん」には真っ正面から答えられていない。選択的なんだから=自由、同姓希望する人も別姓希望する人も等しく尊重してあげろ=平等の論理は現代では優勢で、逆に基本的な価値観の急激な改変は思わぬ副作用が出てきかねないという保守思想の知恵はあまり一般的なものとなっているとは言えないだろう。私が今回言いたいのはどちらが正しいということではなく、自由や平等のようなわかりやすい理念だけでなく、保守の視点も併せて踏まえながら物事を考えたり論者の意見を聞いてもいいのではないかということだ。個の自由がまずありきなのか、それだけでなくこれまで続いてきたものに乗っかって我々が存在しているということも踏まえる見方があってもいいのではないかということだ。

    ちなみに「他の人に迷惑かけないから認めろ」に真っ正面から答えると、結婚は国家から承認されて配偶者控除などの税優遇や相手の性的自由を縛る(不貞行為をするなと要請する)権利が与えられるわけだから、人の勝手というわけにはいかない、というものになる。どのような結婚を承認するかは議論に開かれている必要があるのだ。さもないと「じゃあ、国家の承認のもとに各種優遇なんて受けずに勝手にすればいい」となってしまう。勝手に一緒に住んだり、勝手に経済的に助け合ったりするのは誰も妨害しないのだから。
    同性婚も同様の理屈で、認められるのは当たり前なわけではなく、「複数婚」や「近親婚」も他の人の迷惑でなくても現状認められていない。どんなものが認められるかは、自由や平等だけから当然のように決まるわけではないのだ。

    自由、平等一辺倒の価値観を前面に出した主張に対する疑いは、旧来のメディアや一部の偏った活動家への不信感の形で一般にも広がってきているように見受けられる。これらの価値観は聞こえのいいきれいな言葉であるためその原則から否定するのは難しく、しかもどこが疑わしいのか言語化するのも少し難しい。このためリベラルに対抗する言論を構築するのは難しかったりする。
    議論においても抽象的な自由や平等はそれを当てはめて考えれば、数学の公式に数値を当てはめるように、論理的な議論に見せることが簡単にできてしまう。例えば「夫婦が同姓なのを希望する人も別姓なのを希望する人も迷惑かけなければ平等だろ」というように、「同姓希望」のところに「別姓希望」を当てはめるだけだから、どちらも承認してあげることが一見論理的に見えるのだ。
    私は別姓なのが間違っていると言いたいのではない。そうではなく、形式的に善悪を決めてしまわないで、これまでの社会制度の経緯や意味を、表面的、形式的にではなく、内容豊かに捉えるという姿勢を途中に挟んでもよいのではないかということだ。

    さて、表面的な自由や平等を無理筋でも押しつけてくる旧来メディアへの不信感は醸成されつつあるが、そのような言論の他にも保守思想からは容認できないものがある。それがグローバリズムだ。
    地球規模で単一のルール、やり方に統一するというようにグローバリズムを捉えるとすれば、実際に地域ごと、国ごとのやり方がある現状から見れば、これもやはり現実からの飛躍があるのであり、理性による設計主義ということになる。合理主義の一種と言えるかもしれない。これまでの地域柄や国柄は棄てることになるし、言ってしまえば主権国家も必要ないことになる。こういった点からグローバリズムも保守思想とは相容れないものであると言えるだろう。「グローバルな視点」なんて言うとかっこよく見えるかもしれないが、地域や国の現実を捨象する傾向がこの言葉には含まれていることは覚えておいてもいいだろう。

    理想主義的なリベラリズムや合理主義的なグローバリズムと対比して、保守思想は地に足がついた現実からスタートするという意味で現実主義的であると言えそうだ。
    だが、保守思想の意義が理解されているとは言い難い現状では保守言論はむしろ現実離れしていると思われているふしさえある。
    「大東亜戦争は聖戦だった」「現行憲法は手続きに間違いがあるから無効だ」「日本人としての自然な生活に戻るために江戸時代の生活に立ち返れ」などの主張は一般の人からは非現実的でエキセントリックに見えてしまうかもしれない。これに対して「歴史を正しく勉強すればわかるはずだ」と言われればたしかにそうかもしれないが、それこそ現状に対する一般的な感覚とは不連続であり、その意味で保守「主義」は保守ではないと言われかねない状況だ。特定の主義は観念にすぎず現実ではないからだ。(ちなみに現実主義だけは現実を重んじるという意味だから観念的ではない)

    保守思想の現実主義はいかなる意味で大事なのか。
    シンプルな単一ルールで経済取引をしたり、個の自由が重んじられる方がなんとなく「合理的だったり論理的に正しい」ような気もする。
    これに対する私なりの答えは、当たり前だが社会とはみんなのものだというものだ。
    一部の賢い人が合理的に金儲けするのを邪魔するなとか「理屈、理念はこっちが正しいのだから現実の側こそが正されるべき」と言う人もいるかもしれないが、社会はみんなのものであり、一部の自称「賢い人」のためにあるのではない。社会全体の合意を取って漸進的に社会を改善していくにあたっても、みんなが納得してついてこれることが社会をまとめる上で重要だろう。その意味でこれまでやってきたことを自然な形で継承していくことを重要視する保守的態度は大切なのだ。これは経済のもとの言葉である経世済民が、単に合理的に金を儲ける方法を考えればよいのではないのと同じだ。
    社会はみんなのものというのは別に綺麗事の類いではなく、実際に社会全体を円滑に統治していくにあたって必要な観点なのだ。

    著名な論者や政治家の中にも物事を表面的な合理性だけから「こうすればいい」という人もいるが、彼らは一部既存メディアのような悪意的な誘導をしているつもりはないのかもしれないが、それにしても保守に関する基本的な考え方を知らないと感じられるし、一般の聞いている人も彼らに保守的な観点が欠けているということに気づくこともない。
    だからこそ自由や平等、合理性などの価値基準に加えて、保守の考え方や態度を知ってみんなに取り入れてほしいと思ったのだ。一般の聞き手が、違和感なく受容できるようにすることこそ、まさに保守的な進め方と言えると考えて、個別的な歴史認識などの話はしなかった。「歴史を学べ」で「大東亜戦争の意義」や「現行憲法の問題点」に目覚める人もいるだろう。
    しかし深く学ぶ余裕のない一般の人には現実的な政策の一見不合理に見える足止めがどんな考えに基づいているのかを知っておくのは知恵として有用であると考え、今回論じてみることにしたのだ。

    さて、それでも「理性を過信せず、これまで続いてきたことに謙虚に」とだけ言われても抽象的だと感じる人もいるだろう。
    保守派の具体的な主張が今述べたこととどのようにつながるのか、少しだけ私の見立てを紹介したい。

    これまで引き継いできたもの、つまり伝統という言葉が保守派からはよく聞かれる。この伝統というもののスパンはどの程度なのか、あるいは伝統的な生活をしていたのはいつまでなのか、終戦後の80年は伝統に入らないのか、そういったところでコンセンサスがないままに、例えば「GHQに占領されて日本の『本来の』国柄が失われた」と考える人は戦前回帰を主張しがちだ。終戦までが伝統的な日本の在り方だったはずだからだ。同様に鎖国をしていた江戸時代への回帰を主張する人もいる。
    80歳未満で普通のいわゆる「歴史を勉強していない人たち」からすると、戦前回帰は自分たちが生きてきた感覚的には不連続な社会に変えろと言われているわけだから当然違和感をもつ。それこそ保守的感覚だろう。いくら現行憲法が押し付け憲法でも、多くの国民が現行憲法下で生きてきたのだから。
    「現行憲法破棄」なんていう主張は、これは保守が嫌う「革命」ということになる。統治の根本原理を特定の考えによって一足飛びに変えるからだ。繰り返しになるが保守「主義」は保守的ではなかったりする。
    いづれにせよ復古的な言説の多くは、どこまでを日本の伝統と見なすのか、直近80年であったり直近150年が日本の伝統から見て本来的ではない単なる歴史の切断面にすぎないといった一つの断定が隠されているのだ。

    次に自民族中心主義的に見える言説についてだ。自国のこれまでの伝統を肯定する側面が保守思想にはあるのはおわかりいただけるかと思う。続いてきたものを肯定するからこそさらに続けようとするからだ。
    これに関してよくある言説は「正しい歴史を知って日本人は誇りを持とう」といったものだろうか。
    これも多くの人には「歴史という事実を正しく認識しても、それがなぜ自分たちの誇りになるのか」といった疑問を持たれることが多い。歴史というと、これまでの学校教育だと○○年に○○戦争が起こったというような事実の単調な羅列を思い浮かべる。そのような「事実」と、誇りのような「感情の一種」が直結するのがなんでなのかということだろう。
    保守には、自己に連なる歴史に対する肯定的態度があるため、歴史は単なる事実の羅列ではなく、自分たちの祖先がどんな想いで戦い、そのことにどんな意義があったのかといったストーリーに感受性があるのだ。そしてそれを受け継いで今を生きる自分たちは祖先との繋がりを感じることになる。自分たちの祖先を肯定的に見つめ、そこに連なる自分たちという自己認識をもつわけだからこれは誇りとなる。
    そういった肯定的自己認識に対して冷笑的な態度を取る人たちは、先祖や周囲の人間との繋がりが、自己の自由を阻害する「ウザイもの」と思っていたり、あるいは周囲に認められることがなかったがゆえに自己肯定ができない、あぶれた存在という自己像を持っていたりすることが多いように見受けられる。
    ただ歴史検証の過程で、あまりに自国中心の見方を無理筋でしていれば、他国との軋轢を生むだけでなく、自国内でも知性がないと言われてしまう。
    また卑小な自分を国家などの大きなものとの一体化によって自尊心をかさ上げする人間は排外主義的になってしまうこともあるかもしれない。一般の人が保守といってこういった人をイメージしてしまいがちなのもやはり保守思想のエッセンスが共有されていないからだろう。最初から述べているように保守とは本来そういったものではないのだが、あまりよくは知られていないのだ。

    ゆえに別にマニアックな歴史認識とやらを押し付けようとか、それに基づいてマッチョ主義的に自己を肯定して勇気を持って生きましょうといった「各論」に立ち入るつもりはない。そうではなくこれまで積み重ねられてきた土台の上に我々が生きていることを自覚し、それを尊重する態度も取り入れて社会生活や政治上の意志決定ができるように、一般的に保守思想を教育に取り入れておくべきではないかと思った。それによって社会について考えるレベルが多少は上がるはずだ。
    高校の「倫理」という教科では、西洋哲学だけではなく、日本の古い思想も扱われてはいるが、ここで述べたような保守思想の態度や考え方を社会や政治に向き合う際の基本的スタンスとしては教えてはいないようだ。そういった問題意識はこれまでにもあったらしい。復古主義などの特定の思想ではなく、態度としての保守思想を「穏健に」教育にも取り入れていくのがよいと考えるのだ。

  • AIの要約が忘却させる、本の読みにくさの価値━━難解な文体にしか残らない著者の「存在」

    AIは本当に便利だ。知的な作業でも一瞬でお行儀いい感じの答えを出してくれる。そんな時代にまだ「わかりにくい」本を読む価値はあるのか?そんなことを考えてみたい。
    難しい本の内容を知りたいとき、例えば「キルケゴールの著作『死に至る病』を要約して」と頼めば、死に至る病が絶望であり、その絶望にはどんなものがあるのか、救済されるには信仰を確かなものにすること、などと簡潔に要約してくれる。
    真面目に読んだら膨大な時間がかかるし、そもそも自力で正しくポイントを拾いあげることができるかどうかも定かではない。素晴らしいツールだ。
    「原文、あるいは翻訳でもいいから本人の著作をきちんと読むべき」という意見もある。しかし時間が有限である以上、知りたい著作がキルケゴールだけではないだろうから、「ニーチェは何言ってる?」「ドゥルーズは?」「メルロポンティーは?」となるわけで、限られた時間でいろいろ知れた方が知的には広がりそうだ。
    だから「原文を読め」的言説は、新しい技術への反発心とか、面倒なことを自力でやるべきという根性論、さらには既存の権威者(例えば文献学の教授)などが自分の権威が失われることへの抵抗であるようにどうしても映ってしまう。

    それでも読みにくさに対峙することに価値があると私が考える理由がある。

    それは、わかりにくい文体の中にこそ、その著者の姿が顕れることがあるのではないかということだ。

    なんだかよくわからない切迫感、信じたくても信じきれない弱さ、そして自分はどこまでもその弱さを携えた自分でしかありつづけられない絶望感などをキルケゴールの文章から私は感じたりする。

    余計なものを削ぎとって、言っている内容をまとめたものを要約というのだからその定義上、今例示したような、文体から感じ取れる著者の雰囲気や存在感のようなものは捨て去られるわけだ。
    またこれは完全に私のバイアスや単なる連想にすぎないのだが、各人の中で、恋愛観と死の観念には相関性があるのではないかなんてことを考えたりもした。これは要約だけを読んでいたら着想しなかったはずだし、他の哲学者などから着想を得ることもなかったかもしれない。

    以前は、ちゃんと理解しきれいくせに、翻訳ではあるが、本人の著作をダラダラと読んでいた。解説本や要約シリーズは、ちゃんとした先生がちゃんとしたことを書いていたのかもしれないが、どこかさみしいものを感じていたものだった。それは今言ったようなことを漠然と感じていたからかもしれない。解説本はどこがお行儀がよすぎるのだ。「内容」をしっかり取るために、著者の理性的ではない、理路整然としない実存を捨ててきたように感じていた。

    もちろん、単に文章がわかりにくいだけだったり、伝える順序などの整理が下手なだけと思われる例(例えばマックスウエーバー?)などのわかりにくさはあまり付き合う価値はないかもしれないし、ハイデガーが西洋の存在論の歴史をプラトンからデカルト、カント、ヘーゲルあたりまで一気に振り返るところなどは背景知識が必要であり、偉い先生の解説で理解した方が無駄は少なく正確だろう。

    しかし、そうではない、その著者の存在が漏れ出ているそんな声を聞けることこそが、あえて今風に言えばタイパは悪くともAI要約だけに頼りきることで失ってしまう何かなのではないかと思うのだ。
    そしてみんなが要約だけでわかったことにして、それが通用してしまうとき、著者の「存在」はその痕跡さえ失われ、不可逆であるという意味での真の忘却となることだろう。