AIは本当に便利だ。知的な作業でも一瞬でお行儀いい感じの答えを出してくれる。そんな時代にまだ「わかりにくい」本を読む価値はあるのか?そんなことを考えてみたい。
難しい本の内容を知りたいとき、例えば「キルケゴールの著作『死に至る病』を要約して」と頼めば、死に至る病が絶望であり、その絶望にはどんなものがあるのか、救済されるには信仰を確かなものにすること、などと簡潔に要約してくれる。
真面目に読んだら膨大な時間がかかるし、そもそも自力で正しくポイントを拾いあげることができるかどうかも定かではない。素晴らしいツールだ。
「原文、あるいは翻訳でもいいから本人の著作をきちんと読むべき」という意見もある。しかし時間が有限である以上、知りたい著作がキルケゴールだけではないだろうから、「ニーチェは何言ってる?」「ドゥルーズは?」「メルロポンティーは?」となるわけで、限られた時間でいろいろ知れた方が知的には広がりそうだ。
だから「原文を読め」的言説は、新しい技術への反発心とか、面倒なことを自力でやるべきという根性論、さらには既存の権威者(例えば文献学の教授)などが自分の権威が失われることへの抵抗であるようにどうしても映ってしまう。
それでも読みにくさに対峙することに価値があると私が考える理由がある。
それは、わかりにくい文体の中にこそ、その著者の姿が顕れることがあるのではないかということだ。
なんだかよくわからない切迫感、信じたくても信じきれない弱さ、そして自分はどこまでもその弱さを携えた自分でしかありつづけられない絶望感などをキルケゴールの文章から私は感じたりする。
余計なものを削ぎとって、言っている内容をまとめたものを要約というのだからその定義上、今例示したような、文体から感じ取れる著者の雰囲気や存在感のようなものは捨て去られるわけだ。
またこれは完全に私のバイアスや単なる連想にすぎないのだが、各人の中で、恋愛観と死の観念には相関性があるのではないかなんてことを考えたりもした。これは要約だけを読んでいたら着想しなかったはずだし、他の哲学者などから着想を得ることもなかったかもしれない。
以前は、ちゃんと理解しきれいくせに、翻訳ではあるが、本人の著作をダラダラと読んでいた。解説本や要約シリーズは、ちゃんとした先生がちゃんとしたことを書いていたのかもしれないが、どこかさみしいものを感じていたものだった。それは今言ったようなことを漠然と感じていたからかもしれない。解説本はどこがお行儀がよすぎるのだ。「内容」をしっかり取るために、著者の理性的ではない、理路整然としない実存を捨ててきたように感じていた。
もちろん、単に文章がわかりにくいだけだったり、伝える順序などの整理が下手なだけと思われる例(例えばマックスウエーバー?)などのわかりにくさはあまり付き合う価値はないかもしれないし、ハイデガーが西洋の存在論の歴史をプラトンからデカルト、カント、ヘーゲルあたりまで一気に振り返るところなどは背景知識が必要であり、偉い先生の解説で理解した方が無駄は少なく正確だろう。
しかし、そうではない、その著者の存在が漏れ出ているそんな声を聞けることこそが、あえて今風に言えばタイパは悪くともAI要約だけに頼りきることで失ってしまう何かなのではないかと思うのだ。
そしてみんなが要約だけでわかったことにして、それが通用してしまうとき、著者の「存在」はその痕跡さえ失われ、不可逆であるという意味での真の忘却となることだろう。