「人は生まれながらに平等」素晴らしい理念だ。
スタート地点が揃っていなければどんな競争も「ズル」ということになってしまう。
機会は均等でなければならず、それがすべての人の尊厳を保証していることになる。そう、本来は一人一人の尊厳を守っていくことが平等の理念としてのスタートのはずだ。
しかし、実際にそれが声高に叫ばれるときには、往々にして不満、もっと言えば怨念がベースにあることが多いのではないだろうか。平等自体は反駁し得ない正義の体裁を保つものの、その内実は怨念や嫉妬のようなネガティブなものに駆動されていたりする。しかも問題となっているのは平等でない現実そのものであるから、声高な主張の動機は聞いている側みんながわかっていたとしても、それを咎められることは普通ない。
同じように「論理的であれ」と相手に要求するときにも似たような動機が見え隠れする。
学問的なやりとりの場面で論理的であることを要求されるのは当然であるが、例えば政治などの討論の場面では「味方」には要求せずに受け流すようなことであっても「敵」に対しては「なぜそう言えるのか」と執拗に根拠を求める。安っぽい論破ゲームなんかもまさにそれの一種だ。ここにも形式的平等を求めるときと同じように、内容豊かに価値を議論する姿勢はなく、ネガティブな動機を見てとることができるのではないだろうか。
形式的な平等や、意見に対して執拗に論理性を求めるネガティブな姿勢に共通する特徴は何だろうか。
それは、個を消し去ろうとする力学が働く、言うなれば人称性を消去してでも成り立つ、そんな種類の正義であるように思えるのだ。
「平等であれ」というのは単純に考えれば個の消去であろうし、論理的というのも誰が聞いても理解できる、納得せざるを得ないということだ。
どちらも、それが誰であるのかという人称性を失わせるコミュニケーションなのだ。
ネガティブさと人称性のなさとは一体どのような関連があるのだろうか。
それは、個から発露する自由や多様性を認めない態度に由来するように思う。口をとんがらせて「なんでそう言えるのか根拠だせよ」「出せないなら、それ、おまえの主観だろ?」
思うに、平等も論理性も形式的には社会的に流通する類いの正義だ。そして社会性とは多様な個がぶつかりあいながらも、それを互いに抑制し合う態度だ。つまり個と社会はある部分では対立関係にあり、社会に順応させられることは、個が押し潰されている状態とも言える。
平等を形式的に叫ぶ嫉妬心や、論理性や根拠を執拗に求める粘着性の根源にあるのは、劣った自分から優れた相手への攻撃性だろうか。少しだけ違うように思う。それは、社会に押し潰された人間からの、社会に押し潰されなかった人間への嫉妬心なのではないだろうか。
例えば「歴史を正しく知って誇りや自信を取り戻そう」と言えば「歴史は事実の集合体のはずだからそこから自尊心を調達するのはおかしい」
表面的には正しいことを言っているようだが、自分達の祖先の振る舞いに感謝や誇りをもつことが自尊心をかさ上げしてくれるとして、一体何が面白くないのであろう。
容姿で順位をつけるコンテストを実施するのはけしからんと言う人は、なぜ多様な基準で複数のコンテストをやればいいと思えないのだろうか。自分たちで「性格の良さコンテスト」とか「社会的価値にコミットする人コンテスト」をやればいいではないか。後者については既にやっているかもしれない。問題はなぜ容姿コンテストを潰さなければならないのかということだ。それぞれがそれぞれのいいところを褒め合えばいいではないか。それに対して御大層な社会理論を唱えるのだろうが、まさにその動機に目を向けろと言う話を今している。
ニーチェは言う。貴族のように快活に笑えと。
これはつまり自分という個の根源の根拠は社会に承認されることによってようやく存在するのではなく、自己が自己を定義すること、自分のリビドーを自分自身の肯定を根拠に発露させることを言っているのではないだろうか。
ここには無人称の正義とは絶対的な隔絶がある。「おれがそう思ったんだから、いいんだよ」
この態度への否定、許せなさこそが形式的平等や論理一貫性を執拗に求める姿勢を生み出している。
無人称の正義とは、貴族の自己肯定を抹殺したい、そんな欲望の化身なのではなかろうか。
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