若い頃から付き合いのある友人たちと話していて最近気づいたことがある。
それは、若い頃の自身のダメっぷりを忘れているのではないかという発言が友人たちからよく聞かれるということだ。
「最近の若いやつらは本音が見えにくい」これについては昨今の若者を取り巻く環境が影響しているかもしれず、中年層がそのような感想を持つのも仕方ないかもしれない。
しかし、「仕事に責任感とかないのかよ」「いい子ちゃんで来た若いやつは新しい環境に飛び込む度胸がなくてダメだ」「(難関の資格試験の)勉強は生半可ではすまないことがわかってない。ダラダラするな」こういった若い人に向けた説教くさい言葉を、愚痴として私に打ち明けることもあれば、相手に直接言うこともあるようだ。
私はと言うと、「仕事に責任感とかよく言うよ、どうせ長く勤めないから仕事は手抜きでやるって若い頃おまえ言ってたじゃん」「うまく大学の同級生集団に入り込めないって言って、引きこもり気味でうじうじ悩んでたじゃん」「おれたち勉強から逃げてゲーセン入り浸ってたじゃん」そんな言葉が口から出そうになるのだ。
「若い頃自信も持てなかったし、自分をきちんとコントロールして充実した日々なんて送れてなかったじゃん、忘れたの?」そう言いたくなったりする。
しかしそんな事情も知らない説教された若者はと言えば、その圧を大真面目に食らうことになるだろう。経験や実績が積み重なって説教おじさんの今があるわけだが、積み重なってきたものはそれだけではない。自信のなさや、不安、劣等感と優越感、そんなものに振り回された未熟さもまたそのレイヤーを構成している事実を若者は知らない。若者からは「ちゃんとした」大人とだけ見えるかもしれない。
私の観察では説教くさいやつこそ、過去の自分を忘れてるように見える。
思うに、自分の若い頃と似た若者へのいらだちはある種の防衛反応ではないか。自分がとらわれていたもの、つまずいていたもの、自分をコントロールできない弱さ、こういったものを思い出させられるのが耐えられずに怒りやいらだちに変換されているのではないかと思うのだ。
だいたい今だって、しょうもないこと盛りだくさんだろう。できることはたしかに増えただろうが、できないことはあの頃のまま放置されていたりもする。要は苦手なことはやらないでもすむようになったにすぎない。
おれたちはもともと大したことなかったし、今も大したことはないのだ。
デキあがったように見える「完成品のつもりのおじさん」という存在も分解してみればそんなもんなのだ。
「メイクばっちりきまった女の子ってちょっと苦手」「ナチュラル目の方がいいなあ」そんなふうに思っている男性、特に若い男性は少なくないかもしれない。
なんだか自分は敵わないような、拒絶されたようなそんな心境になるようだ。
成熟しているかに見えるおじさんを、それまでの強みや弱みに分解することで、怖れをもつ必要がないと論じたように、それこそ彼女らのメイク動画とか前髪の作り方動画でも観てみたらどうだろう。顔色悪い女の人がカメラの前で、髪を留めたりしながらメイク道具を一つ一つ視聴者に示して「これ、すごい私の中でお気に入りで、ダマにもなりにくくてしかもこういう印象をつけることができるんです」なんて説明してくれている。
見ている側というのは、「完成品」を全体の印象のもとに漠然と見ているだけだったりするが、一つ一つに分解してみると、顔色の悪いすっぴん、市販されているメイク道具、その使い方のコツ、これらが組み合わさっているにすぎないとも言える。つまりキメてるメイクの裏側には等身大の女の子がいるだけなのだ。
理解は怖れを遠のけるだけでなく、敬意をも生む。
普段メイクをしない男の人は、1個の完成品に向けて一つ一つの要素をここまで努力して磨いているのだということを知るだろう。
なかなかうざいかもしれないが、説教おじさんも実際は弱点をやっとのことでついこないだ克服したばかりの、「完成品まがい」だ。
分解してその心理構造までわかると、怖れが消えるのみならず、受け入れることができるようになってくる気はしないだろうか。
他者理解は、怖れを超克するのみならず、相手のありのままに出会うことなのかもしれない。
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