哲学者であることの危険──我思う、なのに我なし

哲学というと、難しそうな言葉で深遠なことを言っているというイメージだろうか。

世界の根本原理、人間の認識の形式やその限界、他でもないこの自分が生きる意味。いずれも物事の根本に近づこうとし、そこに問いを立てる。根本とは全てのものがそこに根差すということだから全体性への言及を含む。そして問いを立てるとは何かしら疑いを差し挟むということだ。そのような営みがわざわざ哲学という領域でなされている、裏を返せば日常的、常識的には通常そういったことは問われていないということだ。

身の周りのことであったり、「役に立つ」ことについては、理由や原因を考えるし、場合によっては理由の理由、原因の原因あたりまでは考えることがあるかもしれない。しかし世界が存在する究極的な第一原因となれば、一気に哲学的に感じられるだろう。同様に、身の周りのことを論理的に考えるとか実験や観察の手続きが具体的にどのようなものが妥当であるかは常識的な観点から考えたとしても、人間の認識の限界なんてものが問われれば哲学的だとされるだろう。

では常識は根本への問いをどう処理しているかといえば自明ということで多くの場合片付けているはずだ。あるいは宗教という領域で閉じた世界観が提供されているのかもしれない。

ここまでの話から、全体性への疑いを差し挟む哲学なる営みは自明性がぐらついているからこそ可能だと言えるかもしれない。

自明とされるものを疑えるというのは、それとは反対のものを想定可能としている態度だ。
我思う故に我あり。ルネ・デカルトは本当は「我思う、なのに我なし」そんな可能性を考えていたのかもしれない。

高校までの数学は日常的で常識的とされる論理で進めることができるが、大学以上の数学になると、自然数をややこしく定義したり、「2つの関数の和の積分は、各関数の積分の和としてよい」といったような「なんとなく当たり前そうなこと」をわざわざ証明していたりする(一応高校の教科書にも結論が載ってはいるが軽くスルーしている)。
そんなのを目にすると「自然数なんていう一番直観的に理解できそうなものに形式ばった定義を与えるのはむしろ不自然じゃないか」とか「こんなことに証明が必要だと思ったってことはそれを疑ってたってことなのか」などと考えたりする。もちろんそれらは数学的に正しい手続きに乗せるためにきちんと問われる必要があることなのだが。
それにしても何かを真実と定める時に日常的な納得の仕方とはずいぶんと隔たりがある点は哲学と似かよっている。普通の人が「当たり前そう」で片付けているところに、哲学者の頭には疑いの重苦しい影が顔をのぞかせているのだ。そこには住む世界を異にするような危うさがありはしないだろうか。


自明性が決壊していると社会生活も危うい。言葉遣いが違ったり、日常的思考やカテゴライズの仕方が異なると疎通性は悪くなるだろう。

あの子、美人じゃないけどモテるよね
愛嬌があるからじゃない?

この何げない会話も、「愛嬌があるからは答えになっていない」などと言っていてはコミュニケーションにずいぶんとコストがかかることになる。日常会話なんて、遣う言葉の定義が曖昧だったり、循環していたり、要素と合成物の区別も曖昧だったりする。

脳機能的にも混乱、混沌、あるいは迂遠といった形で異質さをまとうことになるかもしれない。あるいは実はそれらの成果物が哲学的視点であることもあるだろう。そこでの危ういバランスをギリギリで取れたものが言語的な営みとしての哲学の形で残り、そうではない数多くの「哲学の卵」はうわ言の類いで捨て去られてきたのかもしれない。
一人の哲学者の中でもそれらがわけられることもある。後期ハイデガーは形而上学に堕ちたなどと言われることがある。よほどこちら側がうまいこと解釈してあげない限り、いたずらに衒学的と捉えられてしまうような内容だったのだろう。
周囲との間に、身体的現実的な関わりを失って思索ばかりになると、独りよがりに何かが「つながった」感覚をもってしまうということがありそうだ。ハイデガーがそうかは別にしてそういう人は一定数いるように思う。大御所と呼ばれる思想家が晩年は崩れてしまっても信者たちはそこに「深淵な意味」を読み取ってしまうといったこともある。

もしかしたら人間の脳は哲学を完遂できるようにはできていないのかもしれない。世界の全体性を超越的な視点で見ることはできないのだ。仮に宇宙の外側が物理学的にわかったとしても、さらにその外側は?と考えざるを得ないのは、世界は単一あるいは全一であるという表象から人間は抜け出ることができないからだ。
また論理的ではなく考えることも、言語的ではなく考えることもできない。これらは人間のあらゆる思考を入れる器のようなものだ。その性質から人間の能力の限界も定まる。
常識こそ分を弁えているとも言える。それを超克して何かを語ろうとする態度は他の学問に対する態度とは異質な何かなのであり、ある種のポエムだ。「哲学的」という表現はそんなニュアンスで遣われることがよくある。
語り得ぬものには沈黙すべきと言った人がいたが、自らがその限界と危うさを知っていたのかもしれない。

コメント

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です