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  • モテテク、トーク術のススメ。マニュアルやテクニックの何が悪い?はじめの一歩を踏み出す勇気

    モテテクやトーク術は、それを信じることで一歩を踏み出せることに価値があるように思う。このような情報にアクセスする人はコミュニケーションやトークに課題や苦手意識を感じ、何とかしよう、改善しようとする人だろう。
    社交場面への不安というものは、そもそもは他人からの否定的評価を恐れるものなのだが、それが徐々に自分への過剰な注意、注目となっていくことで苦しみが増していく。それがテクニックに目がいくことで、自分への注視が減っていき、コミュニケーションなどの本来集中すべきことに集中できて、その結果として成功体験が積めるのならば、それはそれで素晴らしいことなのではないかと思う。
    他者や社会など外部からの評価ではなく、内的な正しさの確信、自己そのものを肯定するといった真の自信を醸成すべきだとも言われる。たしかにその通りなのだが、その道はなかなか険しい。特に若い人は根拠がないとなかなか自分を信じられなかったりする。だから何かを信じて行動に移せるというのは非常にいいことだと思う。歳をとると自然と「まあ、いいや」と思えるようになったり、いい意味で恥知らずになったりするし、その余裕のおかげで逆にうまくやれたりするのだが、若い人には実感しにくいかもしれない。
    そしてテクニックの正しさはさておき、テクニックでなんとかしようとしてるその気持ち自体を相手はかわいくて愛おしく感じてくれているかもしれない。人が人を好きになったり嫌いになったりというのは複雑だ。相手のよこしまな意図が見透かせても、自分の方が大きくて、高いところから見下ろせてれば脅威を感じることなく、むしろ愛しく感じることもある。そしてテクニックを語っている人自身、本当は別な要因でうまくいっているのに、それには気づかずに「おれはこのテクニックのおかげでうまくいった」と自分のやり方を紹介しているだけかもしれない。
    自信の持ち方、一歩を踏み出すきっかけ、人が人を好きになる道筋にはいろいろある。これらを理解しておくのも人生をラクにしたり楽しくするための使える「テクニック」だと思う。

  • 医学部入試廃止論

    現行の医学部入試は学部間での比較で言えば最難関とされており、区分は理系ということになっている。そのため一般入試では主に英語数学理科が課され、国公立ではそれに加えて共通テストで国語や社会も必要とされることが多い。

    私の問題意識は2点だ。医学部一般入試が入学後の適性との相関が低いのではないかということ。
    そしてもう一点は、医師養成にかかる金額を圧縮できるのではないかという点だ。現行一般入試を廃して医師養成をなぜ安上がりにできるのかの構想はこの後詳しく話す。

    医学部一般入試では理系ということで英数理が重視されるが、入学後の勉強はというと理系でも文系でもなく「暗記系」だ。
    私は数学や物理でかせいで入学したタイプで、入学前の予想通り案の定入学後はビリだった。逆にそれらの科目が苦手で入学には難渋しながらも入学後はトップクラスの成績の人もいるし、それどころか高校の同期など、いろんな意味で医師が向いてそうなのに入れなかった人もいる。
    入試はその基本理念として、入学後の学習についていける基礎学力を有するかを調べることを目的とするだろう。なのにずいぶんと食い違っている。
    もちろん医師は、医療行為の最高責任者であり、医行為を始める権限があるので、「暗記力」だけを試して入学させればいいというわけではなく、その場その場での判断力や全体を俯瞰する能力も必要だとは思うのだが、それでもそのような能力を試すのに現行一般入試の科目が適切なのかどうかは不明だ。というかはっきり言えばほぼ関係ないだろう。

    入学後のパフォーマンスとの関係で言えば、一つ面白いエピソードがある。
    私が医学部入学した直後にオリエンテーションがあり、医学教育の責任者の教員が登壇して、「医学部の成績と入試の成績のデータを取ったところほぼ相関はない。だからここにいるすべての学生は油断せず頑張るように」という内容の話であった。
    もちろんこの教員の話の主旨は、みんな前向きに頑張れということだったのだろうが、とは言えこの話を聞いたときは正直腰を抜かした。自分らが実施した入試と、入学後の成績の相関がないことを、ご丁寧にデータまで取って自ら証明してみせてしかも平気でいるのだから。

    そんなことなら一般入試なんかよりも推薦入試の方がまだマシに感じる。
    地方の医学部の推薦などでは共通テスト(旧センター試験)で8割届かないような学力の学生もいるなどと揶揄されることがあるが、たしかに8割切りは多少心配にはなるものの、医学部での学習内容と関係が薄いテストで選抜してしまうよりも全教科真面目に取り組むような学生の方が医学部では適性があるように感じる。高校で嫌な科目まで含めてサボらずに「鼻をつまんで」やり通す根性の方が、数学の難問をあざやかに解く能力よりも重要だろう。
    また体育や家庭科などの実技教科の評価が入るのもバランスがよいように感じる。バランス感覚は臨床医になってからも重要だ。

    ちょっと皮肉っぽく言ってしまうと、医学部ではノイズは歓迎されない。判でついたような同質な真面目っぽい学生が教員からも好まれるし、学生もまたその空気感の中で同質な人間どうしで安住している空間だ。高校で反抗的な挙動を示さず全部を真面目にやってきた生徒は好まれやすい。同質ということで言うと実際は一般入試での選抜でも同質になってしまうのだが…
    同質さは広い意味での忖度の容易さを担保してはいる。


    次に医師養成費用削減ができる構想についてだ。
    簡単に言えば医学部の座学の内容にかかる費用をスキップできないかというものだ。
    よく医師一人養成するのに1億円かかるなどと言われたり、そんなにかからないと言われたりする。
    医師養成の費用と言うと何にそんなにお金がかかるのだろうか。基礎医学を学ぶための実験施設?外部の病院実習をさせていただく施設への謝礼金や補助金の類いだろうか?それらもあるだろう。
    そしてこれら以外に医学部の教員(ほとんどが医師)がやる通常授業にかかる人件費があるだろう。主に臨床実習に入る5年より前の1~4年の座学の授業だ。
    教員の教育熱や指導能力はバラバラだ。臨床系の教員は座学にはそこまで厳しくなかったりするのに対し、基礎系の教員は厳しい傾向にあると言われたりするし、独りよがりな授業で学生が困惑しているという話も聞く。
    それこそバランス感覚を欠いた教員もいるし、そもそも教えるプロでもない。だが、医師=最低時給1万、のような世界であるゆえ、ここに支払う人件費がかなり大きいのではないかと考えられる。
    今は医師国家試験予備校のネット授業を、学校が推奨してほぼ全員が受講している状況もある。
    特に低学年はこの本文の最初に「暗記系」といったように、医師免許保有者でないと教えられないような何か特別なものでもない。それこそ高偏差値学生なら独学でもできるような内容なのだ。

    そこで私の構想は、あくまで4年までが座学のみ、5年からが臨床実習ときれいに分けられるとしたらという前提だが、法科大学院のようにしてしまえというものだ。
    大学卒業者もしくは卒業見込者ならどの学部出身であろうと医学の座学でやる内容の試験を受けて、臨床実習をメインに履修する「医師養成大学院」に進学できるとするものだ。その修了者のみが医師国家試験受験資格を得る。

    実際には4年までの内容にも解剖実習のように重要度の高いものはある。よって学部としての医学部も残しておき、解剖実習などを終えた「純血」医学部生は医師養成大学院を2年で修了でき、他学部出身者は3年とするなどしてもよい。これも法科大学院のやり方に近い。

    この方が医学の内容に適性がある人を受け入れ、少なくとも座学の勉強レベルではレベルの高い学生が医師養成大学院に進むことになるのは明らかだろう。
    相関のない入試で入り口を絞ってしまい、医学ならできた人を落としてしまっている現行のやり方よりは、おそらくはとてつもない倍率となる医学の試験を突破した人たちの集団の方がレベルは高いはずだ。

    現在医学部では臨床実習に入る前のタイミング、主に4年の終わりだが、大学によっては前倒しでCBT(Computer Based Testing)という基本知識のテストと、胸骨圧迫(心臓マッサージ)などの基本実技の試験が行われる。
    要はこれらのレベルを上げたバージョンのテストを医師養成大学院入試で実施すればよいのだ。

    この意見に対しておそらく向けられるであろう批判には「医学教育は座学の知識だけではない」とか「学部で倫理教育、人間教育もやっている」などというものがあり得るが、そういった側面は0とは言わないが、内部の現実とはだいぶ乖離しているように感じる。
    学年に自殺者が出ても学部長がその報告を学生に向かってヘラヘラしながらしていたり、成績評価を学生の好き嫌いで基準を変えたり、独りよがりな授業をやって大量の留年者を出したりと大変香ばしい。
    自分の出身校や他校の噂話レベルでもこれだけいろいろある。別に積極的に悪くいいたいつもりはないのだが、臨床もやらずに研究にお忙しいのだろうから、教育には力があまり入らないのも無理はないわけで、これは教員批判というよりも構造的な問題点の指摘にすぎない。

    では「新卒一括採用」ならぬ「高卒一括採用」をやっているのはなぜなのか。
    ここからは推測だが、穿った見方をすれば、先程も言ったように同質なコントロールしやすい学生を集めたいということだろう。実際女子や多浪が差別されている実態も明らかになった。内部を同質にすることで内輪でのコミュニケーションは忖度が容易になり、スムーズになると言えなくもない。
    ただそれにどこまでの意味があるものなのかは謎だ。

    さらに穿った見方としては、医学部への参入障壁だ。
    開業医の子息で、継ぐように言われて育った人は高校生で決断しやすい。かたや高校生時分の判断で東大理一に進んだことを後悔してる同級生もいる。
    また私立では6年で3000万円台の授業料の学校も多く、これが医師養成大学院のみになって授業料が単純計算で1/3になってしまえば、めざす人は増えてしまう。これをよしとしない人たちもいるだろう。
    医学部以外で、これと似たようなことをやっているところがある。公認心理師の養成だ。
    公認心理師養成の大学院には、学部も心理学系でないと入学できないようだ。
    他学部卒業で大人になってから「カウンセラーになりたい」という人も多い。2年かかる資格試験も世の中いくつかあるのだから院だけ入れというならまだわかるが、これを「学部から心理学でやり直せ」とはずいぶんと過激な主張に感じる。
    こういっては何だが、心理学の学部入学者が抜群に高学力なわけではないだろう。そうすると他学部卒業者を排除することは、相当のレベルダウンになることは明らかだ。
    「多様性」という言葉は昨今いかがわしく遣われることも多いが、それにしても「心理学純粋培養」心理師では多様性があまりになさすぎる。心理学を相対化する知性や経験を持ち合わせた人間を入れなくていいのだろうか。心理学だけにコミットしすぎている人間だけの集団は外部からも異様に見えるものだと思うが。

    学部でやる実習や研修はたしかにあるだろうが、他学部出身者を排除しなくてはならないほどの中身あるものなのか疑問だし、2年コース、3年コースを作ればいいというのも医師養成大学院構想で話した通りだ。
    こんな不合理な政策決定は裏にどんな利権があるのか勘繰ってしまうが、そんなものあるのだろうか。ご存じの方がいれば是非とも教えていただきたい。もし「18歳から純粋に心理師を希望していた人こそ心理師にふさわしい」などと本気で思っているならば、あまりに幼稚な純血主義へのセンチメントだと感じる。

    話を医師養成に戻すと、単なる医学知識だけを試すのではなく、知的能力や教養があることを対外的に示したいのであれば、英語や小論文を院試に課せばよいだろう。「臨床医としての判断力や思考力をみる」とかなんとか言って。

    現行入試でもなぜ数学で数Ⅲまで課すのだろう。工学部のように微積分を実際に使うとかならわかるが、「数学が論理の学問だから大切だ」という程度ならⅡBまででも充分だろう。他の医療系学部は実際そうしている。

    ここでも穿った見方をすれば、医学部が理系の覇者であり、理工系学部が課している内容以下では示しがつかないとでも思っているのではないかと勘繰ってしまう。幼稚な権威主義だ。


    かなり話はとっちらかってしまったが、現行の医学部一般入試は無駄が多いうえに、よい人材や多様性を切り捨ててしまっている。
    さらに医師養成費用の削減にもなる法科大学院類似の形態での養成カリキュラムが合理的だと考える。
    しかも臨床医になるにあたってはさすがに現場で医師としての権限を行使する前に実習や研修、見学は必須となるため、司法試験の予備試験のような抜け道は作られ得ない。
    座学的な知識と実習、研修とを切り分ければ、前者に関しては自己責任で前もって履修してきてもらうのがあらゆる観点から合理的だと考える。

  • 説教おじさんとバッチリメイク──完成品を怖れない心理学

    若い頃から付き合いのある友人たちと話していて最近気づいたことがある。
    それは、若い頃の自身のダメっぷりを忘れているのではないかという発言が友人たちからよく聞かれるということだ。
    「最近の若いやつらは本音が見えにくい」これについては昨今の若者を取り巻く環境が影響しているかもしれず、中年層がそのような感想を持つのも仕方ないかもしれない。
    しかし、「仕事に責任感とかないのかよ」「いい子ちゃんで来た若いやつは新しい環境に飛び込む度胸がなくてダメだ」「(難関の資格試験の)勉強は生半可ではすまないことがわかってない。ダラダラするな」こういった若い人に向けた説教くさい言葉を、愚痴として私に打ち明けることもあれば、相手に直接言うこともあるようだ。

    私はと言うと、「仕事に責任感とかよく言うよ、どうせ長く勤めないから仕事は手抜きでやるって若い頃おまえ言ってたじゃん」「うまく大学の同級生集団に入り込めないって言って、引きこもり気味でうじうじ悩んでたじゃん」「おれたち勉強から逃げてゲーセン入り浸ってたじゃん」そんな言葉が口から出そうになるのだ。
    「若い頃自信も持てなかったし、自分をきちんとコントロールして充実した日々なんて送れてなかったじゃん、忘れたの?」そう言いたくなったりする。

    しかしそんな事情も知らない説教された若者はと言えば、その圧を大真面目に食らうことになるだろう。経験や実績が積み重なって説教おじさんの今があるわけだが、積み重なってきたものはそれだけではない。自信のなさや、不安、劣等感と優越感、そんなものに振り回された未熟さもまたそのレイヤーを構成している事実を若者は知らない。若者からは「ちゃんとした」大人とだけ見えるかもしれない。

    私の観察では説教くさいやつこそ、過去の自分を忘れてるように見える。
    思うに、自分の若い頃と似た若者へのいらだちはある種の防衛反応ではないか。自分がとらわれていたもの、つまずいていたもの、自分をコントロールできない弱さ、こういったものを思い出させられるのが耐えられずに怒りやいらだちに変換されているのではないかと思うのだ。
    だいたい今だって、しょうもないこと盛りだくさんだろう。できることはたしかに増えただろうが、できないことはあの頃のまま放置されていたりもする。要は苦手なことはやらないでもすむようになったにすぎない。
    おれたちはもともと大したことなかったし、今も大したことはないのだ。
    デキあがったように見える「完成品のつもりのおじさん」という存在も分解してみればそんなもんなのだ。

    「メイクばっちりきまった女の子ってちょっと苦手」「ナチュラル目の方がいいなあ」そんなふうに思っている男性、特に若い男性は少なくないかもしれない。
    なんだか自分は敵わないような、拒絶されたようなそんな心境になるようだ。
    成熟しているかに見えるおじさんを、それまでの強みや弱みに分解することで、怖れをもつ必要がないと論じたように、それこそ彼女らのメイク動画とか前髪の作り方動画でも観てみたらどうだろう。顔色悪い女の人がカメラの前で、髪を留めたりしながらメイク道具を一つ一つ視聴者に示して「これ、すごい私の中でお気に入りで、ダマにもなりにくくてしかもこういう印象をつけることができるんです」なんて説明してくれている。
    見ている側というのは、「完成品」を全体の印象のもとに漠然と見ているだけだったりするが、一つ一つに分解してみると、顔色の悪いすっぴん、市販されているメイク道具、その使い方のコツ、これらが組み合わさっているにすぎないとも言える。つまりキメてるメイクの裏側には等身大の女の子がいるだけなのだ。
    理解は怖れを遠のけるだけでなく、敬意をも生む。
    普段メイクをしない男の人は、1個の完成品に向けて一つ一つの要素をここまで努力して磨いているのだということを知るだろう。
    なかなかうざいかもしれないが、説教おじさんも実際は弱点をやっとのことでついこないだ克服したばかりの、「完成品まがい」だ。
    分解してその心理構造までわかると、怖れが消えるのみならず、受け入れることができるようになってくる気はしないだろうか。

    他者理解は、怖れを超克するのみならず、相手のありのままに出会うことなのかもしれない。

  • 哲学者であることの危険──我思う、なのに我なし

    哲学というと、難しそうな言葉で深遠なことを言っているというイメージだろうか。

    世界の根本原理、人間の認識の形式やその限界、他でもないこの自分が生きる意味。いずれも物事の根本に近づこうとし、そこに問いを立てる。根本とは全てのものがそこに根差すということだから全体性への言及を含む。そして問いを立てるとは何かしら疑いを差し挟むということだ。そのような営みがわざわざ哲学という領域でなされている、裏を返せば日常的、常識的には通常そういったことは問われていないということだ。

    身の周りのことであったり、「役に立つ」ことについては、理由や原因を考えるし、場合によっては理由の理由、原因の原因あたりまでは考えることがあるかもしれない。しかし世界が存在する究極的な第一原因となれば、一気に哲学的に感じられるだろう。同様に、身の周りのことを論理的に考えるとか実験や観察の手続きが具体的にどのようなものが妥当であるかは常識的な観点から考えたとしても、人間の認識の限界なんてものが問われれば哲学的だとされるだろう。

    では常識は根本への問いをどう処理しているかといえば自明ということで多くの場合片付けているはずだ。あるいは宗教という領域で閉じた世界観が提供されているのかもしれない。

    ここまでの話から、全体性への疑いを差し挟む哲学なる営みは自明性がぐらついているからこそ可能だと言えるかもしれない。

    自明とされるものを疑えるというのは、それとは反対のものを想定可能としている態度だ。
    我思う故に我あり。ルネ・デカルトは本当は「我思う、なのに我なし」そんな可能性を考えていたのかもしれない。

    高校までの数学は日常的で常識的とされる論理で進めることができるが、大学以上の数学になると、自然数をややこしく定義したり、「2つの関数の和の積分は、各関数の積分の和としてよい」といったような「なんとなく当たり前そうなこと」をわざわざ証明していたりする(一応高校の教科書にも結論が載ってはいるが軽くスルーしている)。
    そんなのを目にすると「自然数なんていう一番直観的に理解できそうなものに形式ばった定義を与えるのはむしろ不自然じゃないか」とか「こんなことに証明が必要だと思ったってことはそれを疑ってたってことなのか」などと考えたりする。もちろんそれらは数学的に正しい手続きに乗せるためにきちんと問われる必要があることなのだが。
    それにしても何かを真実と定める時に日常的な納得の仕方とはずいぶんと隔たりがある点は哲学と似かよっている。普通の人が「当たり前そう」で片付けているところに、哲学者の頭には疑いの重苦しい影が顔をのぞかせているのだ。そこには住む世界を異にするような危うさがありはしないだろうか。


    自明性が決壊していると社会生活も危うい。言葉遣いが違ったり、日常的思考やカテゴライズの仕方が異なると疎通性は悪くなるだろう。

    あの子、美人じゃないけどモテるよね
    愛嬌があるからじゃない?

    この何げない会話も、「愛嬌があるからは答えになっていない」などと言っていてはコミュニケーションにずいぶんとコストがかかることになる。日常会話なんて、遣う言葉の定義が曖昧だったり、循環していたり、要素と合成物の区別も曖昧だったりする。

    脳機能的にも混乱、混沌、あるいは迂遠といった形で異質さをまとうことになるかもしれない。あるいは実はそれらの成果物が哲学的視点であることもあるだろう。そこでの危ういバランスをギリギリで取れたものが言語的な営みとしての哲学の形で残り、そうではない数多くの「哲学の卵」はうわ言の類いで捨て去られてきたのかもしれない。
    一人の哲学者の中でもそれらがわけられることもある。後期ハイデガーは形而上学に堕ちたなどと言われることがある。よほどこちら側がうまいこと解釈してあげない限り、いたずらに衒学的と捉えられてしまうような内容だったのだろう。
    周囲との間に、身体的現実的な関わりを失って思索ばかりになると、独りよがりに何かが「つながった」感覚をもってしまうということがありそうだ。ハイデガーがそうかは別にしてそういう人は一定数いるように思う。大御所と呼ばれる思想家が晩年は崩れてしまっても信者たちはそこに「深淵な意味」を読み取ってしまうといったこともある。

    もしかしたら人間の脳は哲学を完遂できるようにはできていないのかもしれない。世界の全体性を超越的な視点で見ることはできないのだ。仮に宇宙の外側が物理学的にわかったとしても、さらにその外側は?と考えざるを得ないのは、世界は単一あるいは全一であるという表象から人間は抜け出ることができないからだ。
    また論理的ではなく考えることも、言語的ではなく考えることもできない。これらは人間のあらゆる思考を入れる器のようなものだ。その性質から人間の能力の限界も定まる。
    常識こそ分を弁えているとも言える。それを超克して何かを語ろうとする態度は他の学問に対する態度とは異質な何かなのであり、ある種のポエムだ。「哲学的」という表現はそんなニュアンスで遣われることがよくある。
    語り得ぬものには沈黙すべきと言った人がいたが、自らがその限界と危うさを知っていたのかもしれない。

  • 選択的夫婦別姓議論。「選択的」だから許されるべきという論理のまずい点



    選択的夫婦別姓の議論では賛成派、反対派が各論、具体論を闘わせている。
    「賛成派は戸籍制度を潰そうとしている」、「いや、選択的夫婦別姓が実現した場合にも戸籍制度は変わらないと歴代法務大臣が答弁している」、「通称使用の拡大で対応できる」、「制度をこう変えた場合のコストはいくらになる」、「パスポートや銀行口座を作るときの不都合は解消されていない」などなどだ。
    ここではこのような各論を検討するわけではない。
    そうではなく、もっとシンプルで一見強い論理は次のようなものだろう。それは、

    『「選択的」なのだから同姓にしたい人はこれまで通り同姓にしたらいい。なんでその人たちに迷惑をかけないのに別姓にしたい人の自由を妨げるのか』というものだ。

    個人が個人として尊重されるべきという理念からすれば、「他人に迷惑をかけないなら個々の意志が認められる制度にすべき」という論理は非常にわかりやすい。
    これに対して反対派はうまく答えられていないように見受けられる。「反対」という結論が先にまずあってそこに理屈をこじつけようとしているようにも見える。「伝統的家族制度が…」といったノスタルジーの押し付けだったり、「戸籍制度の破壊を目論む勢力の陰謀だ」的な陰謀論になっているように見えてしまうのだ。ちなみに私はこれらが間違っているというつもりもない。
    今回はそうではなく「選択的なんだから問題ないじゃん」という論理に真っ正面から反論したいと思う。

    それは結婚という制度の目的、意味が考えられていないということだ。わざわざ国家が結婚という個人間のつながりをなにゆえに制度として承認しているのかということだ。
    「いや、結婚の意味や目的も個人がそれぞれ決めればよい。法律にどのような目的の結婚なら認めると明文化されているわけではない」と言う人もいるかもしれない。それならばこれはどうだろう。

    結婚には各種特権がある。例えば配偶者控除などの税制上の優遇。あるいは配偶者の性的自己決定権の一部を縛る権利、つまり不貞行為を禁ずるように要請できる、などだ。
    国家の承認によって優遇措置が認められている以上は「選択的なんだから人の勝手でしょ」というのは直ちには通らない。
    もちろん「承認してやってんだから文句あるなら結婚するな」というつもりはない。言いたいのはあくまで「選択的なんだから人の決定に口出しするな」という論理は、それだけでは直ちに自明のものとしては通用しないと言っているだけだ。


    意味や目的ということで言うと、配偶者控除は「夫婦は助け合って生活しましょう」という理念があるのかもしれないし、「不倫はダメ」というのは閉じた関係性を構築するように要請しているのかもしれない。あるいはこれらは正しい結婚像、結婚の本質を提示しているのかもしれない。
    もちろん「夫婦が同姓であることは結婚の意味や本質に関係ない」という意見もあるだろう。それならばやはり、その意見もまた結婚とは何なのかを議論していることになるのであり、「人の勝手なんだから他人にごちゃごちゃ言われずに別姓を選べるのが当たり前だ」という論理とは異なる次元の議論となっているのだ。

    それに「選択的なんだから人の勝手」ということであれば「複数婚や近親婚はダメなのか」という疑問にはどのように答えるのだろうか。本人の自由意志のもとであれば、これらもまた他人には迷惑をかけていない。もしも「別姓はいいけど、複数婚や近親婚はダメ」というならば、「このような結婚は結婚と認めるけど、あのような結婚はダメ」というように線引きをしていることになるのであり、これは結婚の本質を考えていることになる。
    ちなみに複数婚や近親婚を認める社会や時代もあるのであり、それはつまりそれぞれの社会が何らかの意味で結婚の本質を規定していると言える。
    その意味で「人の勝手」以上の線引きをもしするのならば、それは日本社会には日本社会においての結婚の在り方を考えるのがふさわしいということになる。

    同様に「少数であっても同姓にしなくてはいけないことで困っている人がいるなら手をさしのべるべきでは?」という考えも、これ自体は間違った考えではないものの、だからといって結婚の意義や優遇の現実などを無視していいわけではないということが言えるのだ。

    ただ現状の議論で「他人に迷惑をかけないなら人の勝手だろ?別姓を認めることにどんな不都合があるのか言ってみろ」に対して反対派は明確な根拠を示しているように見えなかったり、奥歯にものがはさまったような言い方をしているようにも感じる。
    しかしこれとても反対派の本音であるかもしれないところの「戸籍制度破壊を目論む勢力の陰謀だ」とか「家族制度は社会の基本だから安定させるべきであり、安易にいじるべきではない」といった話が、大して関心のない一般の人たちにわかってもらいにくいということを反対派の人たちが恐れているからであるようにも感じる。ましてや「皇室を破壊したがっている勢力と別姓推進論者が同じグループだ」といった言説は一般の人の中にはエキセントリックにさえ感じる人もいるかもしれない。
    つまり「人の迷惑にならないなら別姓にする人がいてもいいじゃん」というわかりやすい論理に、そこまで関心のない多くの人が流されるという観測があるからかもしれない。
    これも多くの人が結婚なら結婚の本質や意義、結婚する人を優遇する理由を射程に入れて考えていないからだろう。

    結論をまとめると、
    社会の制度や問題を考えるときは「迷惑をかけなければ人の勝手」とか「困っている人がいれば助けるのが当たり前」といったわかりやすい論理だけで結論を出さずに、それらの意義や本質までを射程に入れて考えるべきなのだ。

    しっかりした持論を持っている人や熱く議論する人以外の人たちも、多少なりともそのような態度をもつことで、社会や国家の意志決定の質やレベルも変わってくるに違いない。

  • AIの要約が忘却させる、本の読みにくさの価値━━難解な文体にしか残らない著者の「存在」

    AIは本当に便利だ。知的な作業でも一瞬でお行儀いい感じの答えを出してくれる。そんな時代にまだ「わかりにくい」本を読む価値はあるのか?そんなことを考えてみたい。
    難しい本の内容を知りたいとき、例えば「キルケゴールの著作『死に至る病』を要約して」と頼めば、死に至る病が絶望であり、その絶望にはどんなものがあるのか、救済されるには信仰を確かなものにすること、などと簡潔に要約してくれる。
    真面目に読んだら膨大な時間がかかるし、そもそも自力で正しくポイントを拾いあげることができるかどうかも定かではない。素晴らしいツールだ。
    「原文、あるいは翻訳でもいいから本人の著作をきちんと読むべき」という意見もある。しかし時間が有限である以上、知りたい著作がキルケゴールだけではないだろうから、「ニーチェは何言ってる?」「ドゥルーズは?」「メルロポンティーは?」となるわけで、限られた時間でいろいろ知れた方が知的には広がりそうだ。
    だから「原文を読め」的言説は、新しい技術への反発心とか、面倒なことを自力でやるべきという根性論、さらには既存の権威者(例えば文献学の教授)などが自分の権威が失われることへの抵抗であるようにどうしても映ってしまう。

    それでも読みにくさに対峙することに価値があると私が考える理由がある。

    それは、わかりにくい文体の中にこそ、その著者の姿が顕れることがあるのではないかということだ。

    なんだかよくわからない切迫感、信じたくても信じきれない弱さ、そして自分はどこまでもその弱さを携えた自分でしかありつづけられない絶望感などをキルケゴールの文章から私は感じたりする。

    余計なものを削ぎとって、言っている内容をまとめたものを要約というのだからその定義上、今例示したような、文体から感じ取れる著者の雰囲気や存在感のようなものは捨て去られるわけだ。
    またこれは完全に私のバイアスや単なる連想にすぎないのだが、各人の中で、恋愛観と死の観念には相関性があるのではないかなんてことを考えたりもした。これは要約だけを読んでいたら着想しなかったはずだし、他の哲学者などから着想を得ることもなかったかもしれない。

    以前は、ちゃんと理解しきれいくせに、翻訳ではあるが、本人の著作をダラダラと読んでいた。解説本や要約シリーズは、ちゃんとした先生がちゃんとしたことを書いていたのかもしれないが、どこかさみしいものを感じていたものだった。それは今言ったようなことを漠然と感じていたからかもしれない。解説本はどこがお行儀がよすぎるのだ。「内容」をしっかり取るために、著者の理性的ではない、理路整然としない実存を捨ててきたように感じていた。

    もちろん、単に文章がわかりにくいだけだったり、伝える順序などの整理が下手なだけと思われる例(例えばマックスウエーバー?)などのわかりにくさはあまり付き合う価値はないかもしれないし、ハイデガーが西洋の存在論の歴史をプラトンからデカルト、カント、ヘーゲルあたりまで一気に振り返るところなどは背景知識が必要であり、偉い先生の解説で理解した方が無駄は少なく正確だろう。

    しかし、そうではない、その著者の存在が漏れ出ているそんな声を聞けることこそが、あえて今風に言えばタイパは悪くともAI要約だけに頼りきることで失ってしまう何かなのではないかと思うのだ。
    そしてみんなが要約だけでわかったことにして、それが通用してしまうとき、著者の「存在」はその痕跡さえ失われ、不可逆であるという意味での真の忘却となることだろう。
  • Hello world!

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